幕末の仏教改革者 長松清風 (=日扇 1817-1890)

長松清風・日扇聖人 肖像画

長松清風(日扇)は、文化14年4月1日(1817年5月16日)、京都の商家に生れ、若くして書・画・和歌・国学を学び、すぐれた才能を示し、その名は平安人物志にも見られる。

 

30歳前の若さでひとかどの学者として知られ、歌人、書家としても一家を成していた。

 

しかし人生への深い懐疑から仏道へと志し、幕末の安政4年(1857)京都で本門佛立講を開き民衆仏教の唱導者となった。

 

清風は日蓮の教えを純粋にまもり、徹底した謗法払いと題目口唱中心の修行を貫いた。

 

その後、次々と不可思議な現証があらわれ、病気平癒等の現証利益をきっかけに入信者が続出、多くの民衆が救済された。

 

日蓮、日隆の正統をつぐ後継者という自負は、折伏という行動にあらわれ、檀家制度により形骸化し衆生救済の本義を忘れた寺院と僧侶に対しても折伏をした。

 

その結果、宗内外より数々の怨嫉迫害を招いたが、清風はその苦難を喜ぶ歌を多く詠んでいる。


明治14年(1881)宥清寺で営まれた日蓮の六百回遠諱の法要には、全国各地から本門佛立講の信者15000余人が参詣した。
 

清風の組織運営のスタイルは、その後の日本に数多く発生する、法華系新興宗教の運営に大きな影響を与え、日本近代宗教史の展開に注目すべき役割を果たし、現在に及んでいる。


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